昭和19年東南海 体験談(尾鷲市 山西 俊徳さん)
山西俊徳(当時小学6年生)尾鷲小学校の運動場で騎馬戦をやっている最中に地震が起きた。教室から鞄を取って帰ろうとしたとき、津波だと言われ、学校裏の中村山へ避難した。山の上から津波が見えた。海岸近くの自宅は150mくらい流され、両親は遺体で見つかった。
昭和19年東南海地震 体験談(尾鷲市九鬼町 疋田 まほさん)
疋田まほ(当時九木(のちに九鬼)国民学校初等科1年、尾鷲市九鬼町在住)は自宅にいたところ、地震に遭い、甥をおんぶし、妹の手を引いて、臨月の姉と家の前にある石段を上り、真厳寺のうえの「みかん山」まで逃げた。
昭和19年東南海地震 体験談(尾鷲市(旧南牟婁郡南輪内村曽根) 森 静代さん)
森静代(当時21歳)南牟婁郡南輪内村曽根の実家で被災。井戸で時間的余裕を確認し避難準備するが間に合わず、屋内に閉じ込められたまま天井近くまで浸水。救助されたが被災後、家族の死亡が相次ぐ。
目で見る尾鷲・紀北の100年尾鷲市・紀北町
1944年東南海地震、1959年伊勢湾台風、1960年チリ津波、1971年三重県南部集中豪雨の際の、尾鷲市、紀北町内の災害状況に関する写真が掲載されている(P132~135)。
尾鷲市賀田町 東禅寺へ上る道の脇の石垣上にある「安政津浪潮位点」の碑
尾鷲市賀田町の東禅寺へ上る道の脇の石垣上にある「安政津浪潮位点」の碑。1854年安政東海地震の際の津波潮位点を示している。
三木里郷土史(尾鷲市)
三木里への津波来襲の様子についての記述がある。「第1回目は地震が止んで、約10分後に来襲した。三木里浜沖が干潟になった後、7~10mの波が八十川伝いにさかのぼり、大新田奥の大塚までのぼり、その際八十川筋の家屋をなぎ倒してしまった。第1回目の波から5分間隔位に来襲し、5回目の波が引いて海は平穏になった。」