昭和19年12月7日、その日の私は第2次大戦による招集を受けており、入隊を数日後にひかえて父とみかん山で大石など重い物の片づけをしていました。突然足元をすくわれる様なはげしい揺れにおそわれ立っていられず、思わずその場に手と膝をついたが、地震と共にすぐ頭に浮かんだのが「津波!あぶない」。当時家では農耕用の牛を飼っていました。余震でまだゆれる中を走って家に帰りおびえる牛を引いて高台の家へ避難。すでに何頭かが集まっていました。みんなと川口の方を眺めているとすぐはまぼうの林を飲み込むような高さで、赤濁りの水が壁のようになって押し寄せてきました。その上を何ばいかの小舟が矢の様な早さで上ってゆくのが見えました。揺れ始めから30分位後だった様に思います。水田は刈り取った後でよかったが戦争の末期で若者は招集されてほとんど居らず調製作業の遅れから被害もあった。息子を3人も戦地へ送った老母が作業中津波に流されて亡くなった事は、今でも忘れる事ができません。

外にも家屋の瓦のずれ落ちや、海ぞいの低い家の床上浸水。収穫期の事で作業場に入れてあった米・みかん・さつまいもなどそっくり流されて途方にくれる家もありました。
月日は流れて70年河川改修もようやく終わり、その効果に期待する所は大きいが、東海地震や南海地震との連動で災害規模も予想外に大きくなるかも知れず、こればかりは来てみなければわからない。靴をはいて、頭を守り、安全な道を高い所へ早く逃げる事が第一だと思う。たとえ空振りに終わってもそれに越した事は無い。むしろそれを喜ぶ心にゆとりを持ちたいと思います。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(南伊勢町 萩原 敏男)
概要 萩原敏男(当時19歳)
私は第二次世界大戦による招集を受けており、入隊を数日後にひかえて、父とみかん山で大石など重い物の片付けをしていた。突然足下をすくわれる様なはげしい揺れにおそわれ立っていられず、思わずその場に手と膝をついた。津波のことが頭に浮かび、余震の中家に帰り、おびえる牛を引いて高台の家へ避難した。河口からは、はまぼうの林を飲み込むような高さで赤濁りの水が壁のようになった押し寄せてきた。
タイトル2
概要2
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 萩原敏男
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 1944年 12月 07日 13時 36分
コンテンツの住所 三重県度会郡南伊勢町内瀬地区内
コンテンツの撮影場所
タグID 昭和東南海地震,津波,昭和19年(1944) 東南海地震,度会郡 南勢町
コンテンツID 特集(昭和東南海地震・証言)

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