勤労学徒動員として楠の兵器工場へ出勤していた師範男子部(三重大学教育学部の前身)3年生の1名が昭和東南海地震により命を奪われた(P.28)ことや、航空機工場の被災、地盤沈下の状況(P.44)についての記述がある。